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インタビュー| 新垣 巽さん「こんなに楽しい職場はないと思った」

ユニコに長年勤務した新垣 巽(あらがきたつみ)氏が2021年3月に退職をされました。30年余り勤めたユニコでの仕事のこと、思うこと、これからのことなどを伺いました。

楽しいことも悲しいことも色々と

―ユニコに長年お勤めになり、もっとも印象に残っているお仕事は何ですか

足掛け10年にわたるルワンダでの仕事です。ユニコでの最初の仕事はフィリピン、そして最後の現地業務はネパール。ルワンダでは3件のプロジェクトで仕事をしました。一人でやっていた時と、10人、6人のメンバーなど色々でしたが、楽しかったです。
苦しいことも悲しいことももちろんありましたが、楽しみながら仕事をしたという意味ではルワンダがいちばん印象に残っています。

ネパールの仕事(ネパール国山岳地域での輸出用花卉球根の高付加価値栽培モデルに係る基礎調査)では堤さん(第一本部コンサルタント)と農家の人たちと一緒でした。仕事ももちろんやったけれど、それ以外のところでも面白かったです。例えば、ほんの一瞬エベレストが見えたときや、大きな川沿いでヒンズー教徒の火葬をしている現場のそばを通ったときなど。
直線距離で110キロくらいのところを車で10時間程度かけて移動したからね。色んな現場に出くわしました。たとえば、タイヤが泥にのめりこんだとき、運転手さんや通訳さんなどみんながいっせいに外に出て力を合わせて車を引き出したこと。
現地では字が書けないような女性が集まってくれて花の栽培のことを学んだりする場面を見たし、多くのことが印象に残っています。

―いちばん感動したこと、嬉しかったことは何ですか

ルワンダの3件のプロジェクトの中で、いちばん最初は単独型でひとりでした。最初は二ヶ月の予定でしたが、現地の所長が引き延ばしてくれてさらに二ヶ月追加になりました。職業訓練校の仕事でしたが、クライアントの現地事務所長が緊急支援ということで機材の予算をつけてくれました。自分の仕事を評価してもらえて周囲からサポートしてもらえたことに感動しました。

あとは、ルワンダでその後、2回も誘いをいただいて他社の(案件)補強(団員)に入ったこと。自分にチャンスを与えてくれたということで感動しました。とても感謝しています。みんないい人たちばかりで一緒に仕事させてもらえて勉強になったし楽しかったですね。今でも思い出し笑いするくらい。

やっぱり悲しいこともあったんですよ。インドネシアの中小企業案件の総括をしているとき、団員が突然心臓麻痺をおこしペースメーカーをはめる手術をインドネシアでやったんですね。その直後に団員のお母さんが亡くなって。さらにそのあと、自分の兄が危篤だという知らせを受けて、急遽帰国することになりホテルを出ようとしたら、兄が亡くなったという連絡があったんです。
そして空港に向かっている途中に(現地)カウンターパート3名が交通事故で亡くなったという連絡を受けました。この時だけは自分も、何とかしてくれと大声で叫びたくなるような気持でした。10年ほど前のことです。感動したこともあったけれど、悲しいこともあったプロジェクトもありました。

それから、キルギスでお願いした通訳さんが、まだ27歳なのにはしかで亡くなったという連絡を受けたときもショックだった。仕事を通じて楽しいことも悲しい面もあったし、お葬式にも何度も出たしね。色んなことがありました。

職業訓練校の校長先生らとミーティング(スーダン)手前が新垣氏



心休まる雰囲気の国キルギス

―いちばん好きな国、面白いと思った国、もう一度行きたい国はどこですか

いちばん好きな国はキルギスです。母のお腹の中にいたときのような気持になる。もちろんその気持ち自体は覚えていないんだけれど、心が休まる雰囲気のある国なんですよ。たまたま2002年にコンピューターセンターを設立するときに単独型の仕事で行きました。現地入りしたら、カウンターパートが自分と同じアメリカの大学の出身だったんですよ。彼は今、アメリカンユニバーシティの中央アジアキャンパスのコンピューター学科で学科長をしています。

あとはポーランドに行きたいですね。ダイアナ妃のお葬式があった年にポーランドにいました。土地利用計画というポーランドの地域開発の仕事でしたけど、半年近く過ごしてとても良い国でした。女性がとてもきれいな国でした(笑) ハンガリーももう一度行きたい。中小企業の仕事で行きました。いちばん好きな国はキルギスで、もう一度行きたい国はポーランド、ハンガリーですね。
あとルワンダは今まで行った中でいちばんきれいな国でした。ゴミが全然落ちていない美しい国ですね。人もいいしいい国。虐殺があったなんて信じられないくらいでした。

職業訓練校の校長先生らとミーティング後の食事タイム(スーダン)



時代とともに世代も変わってきたユニコ

―ユニコは、新垣さんが入社されたころと比べてどう変わりましたか

ユニコとの付き合いは1988年が最初だったかな。(案件の)補強(団員)で一年間いました。二年目の1990年にはユニコに入社しています。だから30年くらいかな。付き合い自体は32年くらい。毎日楽しかった。

今は信じられないかもしれないんだけれど、ユニコに入ったとき自分は下から3番目か4番目くらいに若かったの。平均年齢が高かったんですよ。そういう意味では、世代が全然違いましたね。
今、世代がかなり若くなったという感じがします。コロナ禍で社内の雰囲気がわからないけれど、第一本部の社員を見ると若い人が多いでしょう。
社内のコミュニケーションがあまり良くなくなったかな。それほど飲み会もしないし(笑)自分は、社内でいちばんたくさんの人とお酒を飲んだ第一位ですよ。今は少し、社内のコミュニケーションがおろそかになっている気がしますね。きっかけとして、会議や勉強会はやっているけれども、もっとコミュニケーション図れるようなことがあってもいいんじゃないかなという気はします。

―ユニコには今後どうあってほしいと思いますか

ひとりひとりが踊るんじゃなくて組織で動く会社になってほしいなと思うところがあるんですよ。個人商店的なところもけっこうある気がしますね。もっと社内で組織的に動く方向性でいてほしい。組織的に動くには、コミュニケーションを良くするということですね。

(JICAの)公示予定が出たときに組織でどうやって人を探していくか、どう対処するか、戦略的にプロジェクトを取ろうとする組織体制がもっと必要になるんじゃないかなと思います。前もってもっと社内の体制を整えてもいいのではないかなと思っています。ユニコは他の会社と比較した場合に決して引けを取らないような良い人材を集めているのだから、いいところが一杯あるので伸ばしていけばいいんじゃないでしょうか。

分野違いからシステム開発へ

―技術系のバックグラウンドをお持ちですが、ご自身の関心分野・専門分野は途上国での活動を通して変わってきましたか

大学は政治学と地理学なので技術系ではなかったんですよ。1978年に東京に来て、日本橋の丸善に勤めて本を売っていたの。その後、外資系の技術調査をする会社に入ったんだけれど、その時に感じたのは自分が学校で勉強したものだけではやっていけないなということでした。

たまたま半導体の調査を担当して勉強し始めて、コンピューターに関心を持ち始めたの。それで2年間夜間専門学校に通いました。そこでコンピューター開発言語を学び、それからシステム開発の技術を身につける必要があったから自分でその方面の勉強をして。いちばん勉強したのはそのころじゃないかなと思います。

その後、ソフトウェア会社に入ってシステム開発の仕事をしているときにユニコの人が訪ねてきて、フィリピンでソフトウェア産業の振興調査があるけど参加してもらえないかという話をもらったんですよ。それで、ユニコの(案件)補強(団員)として入ったのがきっかけでした。その後、IT関係はだいたい自分に話が来ていました。統計システム開発、キルギスでは銀行決済システムなどのプロジェクトをやっていたんだけれども、しばらくしてコンピューター関係の仕事も減ってきました。

そして産業人材育成の仕事へ

たまたまエジプトで経済調査があってその案件に入りました。そのとき、同時に産業人材育成の担当も探していたんだけれども、応募者がいなかったので、もし差し支えなければ非公式であるけれど産業人材育成の方もやると自分から申し出ました。
とくに、自動車工業、IT産業の二つが対象分野だったので、非公式な形でレポート出したらクライアントの担当者は喜んでくれたんですよ。

それから産業人材育成が面白いと思って応募するようになって、その後、アンゴラやエジプト、キルギスのコンピューターセンター、スーダンなどのプロジェクトに関わり始めました。
それと前後して、これからの分野は産業人材育成ではないか、とくに民間企業との連携を図るような人材をどう育成するのか、それも大学レベルでなく職業訓練レベルでニーズがあるのではないかという話を持ち掛けてプロジェクトを取っていったんですよ。

どちらかというと技術分野ではなくてむしろ違う分野なのだけれども、自分でも日曜大工したり、畑耕したり、プラモデル作りもやったりしていたからね。産業人材育成という側面から、民間企業で即役に立つような人材をどう育成していくのかという分野に手を出し始めて、おかげで仕事が取れましたね。そういう意味で、ITから産業人材育成に移り変わっていったといえます。

これは社員の皆さんに言いたいことなのだけれども、必ずしも一つの分野だけにこだわらず、これからのプロジェクトの潮流を見ながらどういう専門で進んでいくかを考えてほしいなと思いますね。

―ユニコの社員にひとこと、ユニコに期待することなど

本部長を十分サポートしていってほしいと思いますね。みんなで特定分野を業務分担するような体制を考えればいいのではと思います。社員ひとりひとりが気を配ってあげてほしいなと思っています。

読書、自転車、沖縄、飛行機……これからやりたいこと

―これからやりたいこと、今一番関心あることは何ですか

僕は本を飲むのが好きなんですよ。どちらかというと乱読なので何でも読む。村山由佳まで読むから(笑) これから本を読み進めたいですね。

それから、自転車に乗ってよくあちこち遊びに行くので、成田に自転車で行って飛行機を見に行くのがいちばんの楽しみです。(注:新垣氏は飛行機好きです)これからも続けたい。

4月にもうひとり孫が生まれるんですよ。孫の楽しみもあります。
僕は沖縄生まれ。沖縄というと戦争で20万人近くが亡くなったんですよね。やり残していることとしては、沖縄の戦地、南部戦跡など戦争の慰霊の塔などをもう一度回りめぐって、戦争で亡くなった人たちのお参りをしたいということがあります。
沖縄の高校時代の同級生たちで作ったLINEグループが5つあるんですよ。不良グループね(笑)そういうのはずっと継続してやっていきたいと思っています。

飛行機については、改めて飛行機に関わる仕事を探してみたいと思っています。一生に一度くらいは自分が本当にやりたい仕事をやりたいと思うし、飛行機が見える環境で働きたいと思っています。警備員か、機内清掃か、機体清掃とか、喜んでやるんだけど。飛行機の見えるところで仕事がしてみたいですね。

あとは、エア無線を聞いています。飛行機と管制塔の無線が聞こえるの。今はネットでも普通に聴けるんですよ、ラジオと同じように。もちろん交信はできないけどね(笑)
以前は自宅に大きいアンテナをつけていたけれど、今はアンテナを取ってしまった。短波ラジオを枕元に置いて世界中の放送を聞けるようにしています。エア無線機も見たい?(笑)(注:見せてもらいました)

エア無線と短波ラジオを手に



これを持って成田空港行くと実際の飛行機を見ながら飛行機と管制塔のやり取りが聞けるんですよ。もうひとつ大きいものもあるんだけれどね……(注:飛行機の話はつきませんでした)

―最後にひとことお願いします

ユニコに行って本当に楽しかった!こんな楽しい職場はないと思ったもの。ぜひ若い人たちをどんどん雇ってみんなで頑張ってほしいなと思います。

インタビューの様子




(聞き手/撮影:土屋、保坂、横山)

インタビュー:2021年3月

新垣氏が携わった案件の一つ「フィリピン国地方食品包装技術改善プロジェクト(2006年9月~2009年7月)」のプロジェクトリポートはこちら


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